当会会員が提供する深層情報 - Ⅰ  ~政宗公と仙台城の“推し情報”~

【伊達政宗公初代騎馬像の前立】

 令和3年2月13日深夜、宮城県は震度5弱の強い地震に見舞われましたが、幸い大きな被害はありませんでした。しかしながらこの時の強い揺れで仙台市博物館中庭にある初代騎馬像胸像のあの弦月前立が途中で折れてしまいました。86年前の昭和10年(1935年)鋳造ですので、優美な造形は徐々に劣化したようです。

 現在は修復されていますが、兜と一体成型なので修復作業は難しかったようです。(前立は通常木製で、戦闘時には着脱します。)

昭和10年5月16日午後、大手門前に到達したトラクター

【写真提供:会員青木氏】には前立を外し、白木綿で梱包された騎馬像(高さ13.8尺=4.14m)が積まれていたが、門扉の高さは13.3尺=約4mであったため、予め扉の下の土を1尺(30cm)以上掘り下げていたものの、数千人の群衆がかたずをのんで見守る中、僅か5分(1.5cm)の隙間でくぐり抜けたという。4.8tもの重い騎馬像を乗せたトラクターには綱がつけられ、250名の青年団員が本丸跡に運んだのは午後5時45分頃でした。

 前立は18日からの現地作業で取り付けられたようです。

                 

                 

  

【仙台城の最大規模と最大威容】

 広瀬川河岸から高さ35尋(ひろ)(約70m)の急峻な崖の上に築かれた仙台城本丸は元和2年(1616)の大地震により多くの石垣や櫓が倒壊しました。政宗公は表門の門両脇に配された東西脇櫓北東角の艮櫓(いずれも桁行・梁間は6間(11.7m)~7(13.7m)程度で三重櫓)、南東部の巽櫓(三重

・5間程度)や西の酉門の脇櫓(二重)等を整備し、地震後数年内に堅固かつ威容を示す山城を再度完成させました。

 

 2代忠宗公は寛永16年(1639)6月、完成した二の丸の移徒式(わたまししき)を行い、新たな政庁殿舎にられました。ここに仙台城は本丸の詰門と五基の櫓、光る大広間御殿や懸造り、そして国内最大規模の大手門及び二の丸殿舎もつ天下の堅城として青葉山に輝きました。

 この態様は正保2年(1645)幕府に提出された「奥州仙台城絵図」(略称「正保絵図」に示されています

 

 しかしながら翌正保3年(1646)4月、領内はまたしても大地震に見舞われ、仙台城は酉門付近の石垣が崩落、四基の三重櫓と酉門脇櫓も全て倒壊するという甚大な被害を受けました

 その後、藩財政の悪化等もあり、五基の櫓は再建されず、現在に至っています。このため仙台城の最大規模と最大威容”の期間はわずか7年で終わってしまいました。

正保絵図はこれを伝える最初で最後の史料といえます。

      【奥州仙台城絵図】(略称正保絵図) 

  

【仙台城大手門の復元計画】

 仙台市は仙台藩祖伊達政宗公の没後400年となる2035年を視野に仙台城跡の全体的整備を進めており、最終年度の2038年までに大手門を復元する計画です。完成すると1945年に米軍の空襲で焼失して以来、実に93年振りに日本最大級の大手門が出現します。

 桁10(19.7m)梁間3間半(6.8m)・高さ6間半(12.5m)、2階建入母屋造りの棟に鯱を載せた堂々たる楼門で、正面扉は藩主や特別な賓客等の登城の時だけ使用されました。

 現在ある脇櫓(隅櫓)は昭和42(1967)に民間の寄付により復元されましたが、戦前と規模や意匠の形状が少し異なることから、再度建て直される計画です。               【焼失前の大手門(裏側)と脇櫓】

 違いはお分かりですか?        

                                      【現在の脇櫓】

 大手門の建造時期には諸説があります。ひとつは2代忠宗公が

幕府の許可を得て寛永15年(1638)から二の丸を造営した際、そ

の大手門として造られたとするものです。しかしながら二の丸

は政庁用殿舎群として建築され、解体された若林城から13もの

部屋も移築しており、防御施設としての大手門築造の必要性は薄いとする見方があります。

 もうひとつは、慶長8年(1603)頃までに仙台城の築城を終えた政宗公は城下の整備や領内の寺社造営を積極的に行いました。それが一段落した後の慶長14年(1609)頃から仙台城の改造に着手し、大橋や大手門を新たに建造、大広間御殿も建て替えたとするもので、有力です。

 他は朝鮮戦役の時に秀吉が築造した名護屋城(佐賀県唐津市)の大手門を移築したというものですが、門の形状(名護屋は櫓門)や大きさが違うことから否定されているようです。 

 

【大広間御殿の破風の七七桐紋】

 伊達家の家紋は8種類あります。定紋(本紋または正紋)と呼ばれる家紋は三引両紋・竹に雀紋・牡丹紋・蟹牡丹紋の4つで、三引両紋と竹に雀紋は幕紋にも用いられ、藩を識別する正紋です。   

 替紋(副紋または別紋)と呼ばれる家紋は菊紋・桐紋・九曜紋・雪薄紋の4つで、他所からいただいたり所望して使用する普段使いの紋です。

 

 菊紋は16葉の菊花紋で、豊臣秀吉から拝領しました。また桐紋太閤桐とも称される、葉が真ん中7枚・両側5枚ある「五七桐」で、同じく秀 

から拝領しました。秀吉は五三桐の紋も用いたようです。

                千田家「姿絵図」の大広間破風図    

   

 「十六菊・五七桐」は大広間御殿の東西の破風や大手門正面、瑞宝殿廟堂等の重要建物の前面付けられた他、政宗公の衣装の小袖にもあったようです。

 ところが、仙台藩大工棟梁千田家が元禄期に作成した「仙台城及び江戸上屋敷主要建物姿絵図」に示される大広間御殿の東西面破風の桐紋は、なんと「七七桐」になっています◦これはこれまであまり注目されていませんが、明治期の解体までこの桐紋の大彫刻が付いていたと思われますそして大広間のサイズと絵姿を忠実に1/50で再現した見聞館の精巧な御殿の模型の桐紋も「七七桐」になっています。市の見聞館に展示中ですので、じっくりとご覧下さい。 

 政宗公は慶長15年(1610)に完成し燦然ときらめく大広間の御殿は秀吉の聚楽第大広間と並ぶことを後世に残すため敢えて直径2m余の金箔押彫刻を「七七桐」にしたのではないでしょうか。築造当時は豊臣秀頼が健在で「大坂の陣」の前ですから、家康も伊達の替紋に口を挟むことはできませんでした。そしてさらに3年後、支倉六右衛門常長を遣欧使節としてスペイン・ローマに派遣します。

まさにしたたかな戦国大名伊達政宗、ここにあり!です。

 

 なお、同時期に築造されたとされる大手門正面の冠木に施された金箔押の桐紋は「五七桐紋」です。

  【見聞館内「仙台城本丸大広間1/50模型」】       (参考資料:伊達泰山文庫「伊達家系譜と家紋」)

 

 

【政宗公の最後の参勤と日光東照宮参詣】

 政宗公は最後の参勤で3代将軍徳川家光に暇乞い(いとまごい)をするため、寛永13年(1636)4月20日早朝仙台城を後にしました。23日は矢吹原で鷹狩を楽しみ25日日光に到着しました。この時は神君家康公の没後21年(21年神忌)に間に合うよう、現在態様の豪華絢爛な陽明門や本殿等が大規模に改築されたばかりで、家光は4月17日に「21年神忌」を営みました。(大工棟梁甲良豊後宗広、工費56万8,000両=約1,200億円)、

 

 政宗公が参った4月25日は公家門跡衆の社参日にあたり、神殿に向かうと社人が神楽を奏し、巫女が鈴を鳴らして迎えてくれました。天海大僧正や毘沙門堂御門跡等、僧正・院家衆が坐して見守る中拝殿に進まれ、内陣に御太刀と折紙を奉納されました。神殿を退出す

る際は大僧正と御門跡が二人並び、拝殿の中ほどまで見送られるなど、特別な待遇を受けられました。         

       【日光東照宮案内マップ 】  

 この後、家光の命を受けた伊丹播磨守の案内で拝殿より左の方に廻り、家康公御宝塔のある奥院に向かって急な石段を上っていきました。54~55段の石段坂が4ヶ所、37~38段の坂が3ヶ所あり、本堂の前の最後ひとつの石段のところで、長袴の括りが緩んで足に纏い付き倒れてしまいました。両側に御付きの小姓がいたので大きな怪我にはならなかったが、左手の親指の節を石で擦って少し血が出ました。伊丹播磨守には御礼を言い別れた後、「倒れまじき所にて倒れ、指より血出て穢れが生じたことは“日光にはついでではなく参拝だけで参れ”というお告げである」としてはらはらと落涙され、本堂には上らず暇乞いの三拝をして無念のうちに下向しました。

 

 政宗公は「一両年このかた食後に必ずむせ心あり」の症状で、4月21日からは御膳もあまり進まず、時々御茶と水ばかりの状態になりましたが、「気色衰えざる内のぼり、御いとまごい(隠居の挨拶)の出仕をつとめ、東西の諸大名衆にも対面し、かなわぬまでもひろく養生のためにしかるべしとおもふなり」と自らと周囲を励ましました。片道330段以上もの奥院の石段を上り下りしたのも最後の気力を振り絞ってのこと、家康公への忠義と生への強い意志を感じます。しかしながら4月28日に江戸に着くと病状は少しづつ悪化していきました。

 (参考資料:小井川百合子「木村宇右衛門覚書 伊達政宗言行録」、小林千草「伊達政宗、最期の日々」)  

 

【政宗公の遺愛刀】

 政宗公は寛永13年(1636)5月24日卯刻(早朝5時過ぎ)に薨去されました。亡くなる最後の夜も、最後の戦国武将としての威厳と矜持を示されました。

 その夜はいつもよりゆっくりと念入りに行水され、御髪まで洗わせられました。その後御座の間に入ると、床の間に立て置かれた「しつのなぎなた」(長刀)の鞘をからりと捨て、左手右手と2・3回振り回し、「このような病身であっても、この長刀さえあればむざむざとやられはしない。名残り惜しき日頃のしつや」と言って長刀にもたれかかられました。戦さ場で命を託して斬り合い、生き抜くことができたのはこの愛刀ゆえと、愛(いと)おしさはひとしおのご様子でした。

 

 この後政宗公は髪を結わせ衣装を身に着けられますが、日頃は紐を付けた下帯を着用されるところ、着崩れしないようにと真紅の絹の二重廻しをしっかり締められ、最期を迎える装束になりました。そしてお休みになられたが、時々目を覚まされ昔の思い出を語られたり、愛刀の腰物(太刀)と脇差を床の間から近くに取り寄せ、柄をさぐりながら、床の上でのこのような有様は「無念の死によう」と落涙されたりしました。明け方近くになると「知死期(ちしご)の時来たり」として、体を起こさせ御髪の鬢と 

衣装を整えさせてから、再度腰物と脇差を床の間から取り

           【墓室内の遺物遺存状況】                    寄せ、愛おしく腕に包んで最後の別れをしました。そして

    資料提供:公益財団法人瑞鳳殿様            小用に自らお立ちになり、戻ると両手を合掌させて喉の下

                             に納められ、やがて最期の時を迎えられました。 

 

 さて、このように最後まで政宗公に愛おしがられた愛刀は何か?そして一緒に埋葬された遺愛刀は何か?です。

 

「伊達治家記録」によれば、埋葬された副葬品は「御具足御太刀御脇差等」です。

 昭和49年の瑞鳳殿の政宗公墓室発掘調査において、出土

       【金梨子地桐葵紋蒔絵糸巻太刀】                                                           した刀類は「糸巻太刀と脇差」でした。糸巻太刀の銘はX            画像提供:公益財団法人瑞鳳殿様            線透視でも不明のようですが、長さ106㎝・鎌倉時代の作と 

                                            され、拵え(こしらえ)は金梨地に葵紋と桐紋の金蒔絵が

                             交互に施されています。

 

 しかしながら、糸巻太刀は儀式や奉納・進物用太刀ですので愛刀とはいえません。他方、脇差は政宗公が最後まで手にした遺愛刀といえます。

 政宗公が最も大切にした脇差は秀吉の遺物として拝領した「鎬(しのぎ)藤四郎」で、毎年元旦の時だけ差した秘蔵中の秘蔵の愛刀でした。時の将軍が所望しても毅然として断りました。しかしながら亡くなる前、自分の死後家光に献上すると、禁止されている二の丸造営の許可が下りるだろうと忠宗公に策を授けられたようで、その通りになりました。家光は献上された鎬藤四郎をその後慶安3年(1650年)世子家綱与えましたが、明暦の大火(1657)の時に焼失したとされます。

 

 では、出土した脇差は何か? 糸巻太刀と同様、銘は不明のようです。

 しかしながらヒントがあります。鎬藤四郎を内々所望したとされるのは、政宗公が初めて江戸藩邸桜田上屋敷に御成の家光を饗応した寛永元年(1624)2月の時です。(大猷院(秀忠)や甲斐中納言(家光弟忠長)他も同席。所望したのは秀忠とか、寛永元年以外の御成時等の諸説があります。)この時家光より「御太刀元重・御腰物貞宗・御脇指志津」が政宗公への贈り物として下されました。したがって、出土したのはこの「志津」の脇差かも知れません。

なお、政宗公が愛おしく労をねぎらった「しつの長刀」とは長刀の刃の形状で「静形」の長刀のことをいうようです。

 

 他方、政宗公の愛刀の腰物(太刀)はどのようになったのでしょうか?

 政宗公は「秘蔵の三腰」として「亘理来の刀国光、景秀(はばき)国行」を挙げ、「我が命なれば、死後によく秘蔵せらるべし」としています。特に「鎺国行」は豊臣秀吉から天正17(1589)是非にと所望され、最愛鳥の鷹と交換に拝領した由緒物です。しかしながらこの秘蔵の三腰はいずれも埋葬されることなく、明治期にその存在が確認されています。

 そして平成31年2月、高名な刀剣研究家が所持していた「鎺国行」(長さ2尺3寸8分=72cm)が仙台市に寄贈されました。

これこそ政宗公が最後に愛おしんだ遺愛刀の腰物かも知れません。次回展示会の開催が待たれます。

 

(参考資料:伊達泰山文庫「伊達政宗の遺骨と副葬品」、小井川百合子「木村宇右衛門覚書 伊達政宗言行録」、小林千草「伊達政宗、最期の日々」)

 

【酉門(とりのもん)と周辺石垣】

 正保2年(1645)「奥州仙台城絵図」(略称正保絵図)には、本丸西側に「酉方門」と表される階建の門が南面して建っています。楼門形式で他の本丸の4櫓と同様入母屋造り瓦葺きと見られ、その西隣には二重の酉門脇櫓が配置されていました

 この門と櫓は大深沢に面して屈曲する内枡形の最奥部に位置し、本丸西側の防御及び城内水源確保上特に重要な場所でした。枡形は高さ2尋半(ひろ≒1間5m)の石垣に

囲まれ、城外の方形の「井」印が印されている貯水槽付近まで続いていまし長さ18尋(約36m)です。

 

 海抜115mの高台に築かれた本丸の給水源は湧水と地下水で。巨木の原生林におおわれた青葉山は湧水に恵まれ、大深沢の谷に湧出する御清水(おすず)の水が約100m余下流の「井」の貯水槽(3.6m角・深さ1.5mの石積み構造)に引かれ、酉門から城内に運び込まれました。本丸の水源として他に城内2本の井戸も掘られました。

 酉門から詰門にかけては急峻な大深沢の崖(高さ約40m)が拡がり、その縁には高さ4尋(約8m)の石垣が巡っていました。

 この上に詰門西脇櫓まで白壁塗籠(ぬりこめ)瓦葺き狭間のある「長屋」(多聞櫓)が71尋半(約140m)続く様子が正

図に記されています

 

 この石垣は正保3年の地震で崩落したが、その後江戸時代以降に何回か積み直しが行なわれた形跡が確認されています

 急峻な崖上の石垣の修復は相当な難工事であったことが想像されます。昭和53年1978 の宮城県沖地震で被災し平成

23年3月の東日本大震災の地震でこの酉門石垣と北西石垣が崩落しました。修復工事は平成24年7月~27年2月の間に実施され、北西石垣では切石積みの壁面と割石・野面石使用の野面積みの壁面が共存する珍しくも美しい石垣が復元さました。

 

 現在、城内の詰門から酉門にかけての一画は護国神社の神殿域に当たるため、自由な見学は制限されています。また北西

石垣部は車道に歩道がなく交通量も多いので、見事な石垣付近に近づけないのが現状です。

 

 (参考資料:「仙台市史」特別編7城館、仙台市教育委員会「仙台城跡 東日本大震災からの復旧事業のあゆみ」他)

 

【昭忠碑金鵄像の設置工事】

 昭忠碑は陸軍第二師団の軍人・軍属の戦没者・殉難者の霊を祀る慰霊標で、仙台の橋本組(現㈱橋本店)により明治35年(1902)7月竣工しました。石塔の高さは67.5尺(20.5m)、青銅製金鵄(きんし)の翼長は22尺(6.7m)・重さは5.8tでした。

 総経費は22,200円、うち石塔部は12,200円、金鵄像部は9,000円(「仙台市史」明治41年刊)という。

 石塔の建造は現在の場所に丸太の足場を組み、花崗岩の石を少しづつ積み上げていきました。金鵄像は東京美術学校が制作、製造には2,222貫、鉛220貫が使用されたようです。

 東京から搬送された金鵄像は、石塔に架設された足場に  

塔上までのスロープを作り、ウィンチで引き上げて据え付

けられました。

     【写真・資料提供㈱橋本店様】             写真は引き上げ途中のものですが、周辺の草や樹木は当時

                                                       の城内の荒城の様を窺わせます。この頃から「荒城の月」が唱歌で歌われました。 2年後の明治37年 (1904)護国神社の社殿が完成し、城内はようやく整備されました。

 

  金鵄は日本神話に出てくる霊鳥で、神武天皇東征の時、黄金色の鵄(とび)が飛来して天皇の弓に止まり、戦勝に導いたという神話から、明治以降戦功のシンボルとされ、明治23年には金鵄勲章が制定されました。明治の建造からちょうど120年

となる金鵄像は今は塔の下で静かに私達を見守っています。