当会会員が提供する深層情報 - Ⅱ   ~仙台城下及び領内の“推し情報”~

【政宗公の鉄砲組】

 文禄元年(1592)3月17日、京都の町は大賑わいであった。豊臣秀吉の朝鮮出兵の命を受け、有力大名は京都の聚楽屋敷から順次出発した。一番は前田利家、二番は徳川家康で、それぞれ見事な装束で威儀を正した行列だったが、三番手の伊達勢の出で立ちは見物の人々を驚かす奇抜なものだった。幟30本は紺地に金色の日の丸、幟持と足軽の280人は黒塗りの具足で胸と背には金色の星をつけ、金色の長さ3尺(約90㎝)の尖り笠と朱塗鞘の刀を身に着けた。馬上衆30騎は黒い母衣に金色の半月をつけ、馬鎧には豹皮や虎皮・熊皮・孔雀の羽根等をつけて数寄を凝らし、金熨斗付きの大小太刀を帯びた。伊達をする・伊達者という言葉の始まりとなったとされるほど京都の町衆は伊達衆に讃嘆した。

 

 

(出典:学習研究社 歴史群像シリーズ【戦国】セレクション『 風雲 伊達政宗 』。次に続く。)                         

 この足軽の中に鉄砲組は100人おり、史上初めて隊列行進 で伊達の鉄砲組は登場した。なお槍組は100人・弓組は50  人(100人説あり)であった。

    (『貞山公治家記録』巻之十八上 より

 

 慶長14年(1609)7月24日、政宗公は仙台城の懸造りの座敷から総鉄砲組のつるべ撃ちをご覧になった。徒小姓組・不断組・給主組・名懸組及び足軽組からなり、「花壇の東、仙台川の崖より南西北へ引き廻し」「舟丁(河原町)まで引き続き差し置」かれ、城中三本杉のところに足軽

30人を置いて合図の鉄砲を撃たせ、合図とともに徒小姓

組より打ち始め「段々次第に撃ち終わる、各三度に及んだ」という。

 

 さらに8月18日にも総鉄砲組はつるべ撃ちの演習を行った。この時は「辰刻(午前8時)諸組の頭、各騎馬衣裳等引き装

い、組の輩を引き連れ、段々伊達右近殿定宗(涌谷)屋敷前よりうち出し、名取郡長町の西、宮沢渡戸一里塚より、御徒小姓組列居し、諸組段々次第を以って、南の方へ、同郡植松邑の南糠塚(現名取ニュータウン)まで引き続き相並ぶ」。

 そうして諸隊が整列しているところを、政宗公は馬で武頭(ぶがしら)に御意を賜りつつ閲兵し、その後長町の西・御月山(茂ケ崎山)へ登り、合図の鉄砲を撃たせた。徒小姓組から糠塚に配置されていた諸組まで段々に撃ち終わり、さらに糠塚の組から撃ち始めて徒小姓組まで撃ち返して、演習は終わった、という。

           (『貞山公治家記録』巻之二十二 より)

  

  慶長5年1660の9月の関ケ原の戦いの際、政宗公は最上勢救援に9月17日伊達上野介政景以下の家臣団を派遣し、軍勢は鉄砲1,200挺・騎馬420騎・弓250張・槍850本を備えたが、鉄砲組の多くは旗本組と推測される。なお、10月1日直江兼続撤退に当たり、上杉景勝は直属鉄砲隊500人から300人を救援に差し向けたという。

  伊達勢本隊は10月6日上杉景勝の福島城を包囲し、茂庭・屋代・桑折の3将の軍勢約3,000人を主体に布陣した。旗本鉄砲組から250挺を屋代に差し副え、決戦を目前としたが、天下の形勢落着をみて(9月30日夜関ケ原の戦いの結果が届き、次々と続報も入った)、翌日北目城に引き上げた。

           (『貞山公治家記録』巻之二十上 より)

 

  これらの鉄砲組は慶長19年(1614)10月の「大坂・冬の陣」、翌年の「夏の陣」に出陣した。仙台藩は他の大名に比べて鉄砲の装備率が高かったとされ、冬の陣では出陣した1万8,000人の兵は3,470挺の鉄砲を携行したという。

 

 翌年の夏の陣の道明寺の戦いでは、その火力を存分に発揮し、武勇で知られた豊臣方の武将・後藤又兵衛(基次)を撃ち倒す戦果を挙げた。

 

  ところで、鉄砲組は藩主直属の実力部隊である徒小姓組・不断組・給主組・名懸組と旗本鉄砲組及び足軽組から編成されたと考えられるが、家格・序列制度が厳しい仙台藩においては、鉄砲組の地位は下から2番目の「組士」に位置付けられ、「士分」ではあるものの本来の侍衆ではなかった。また処遇については大半は切米・扶持米を給され城下に居住したが、給主組は例外的に知行地を与えられた。

  【家格】一門・一家・準一家・一族・宿老・着座・太刀上・召出・平士・組士・卒の順。

              (藩政前期は平士までが「侍衆」とされた。)

 

  家臣団及び鉄砲組の人数については以下の通り。明治41年(1908)刊「仙台市史」掲載、幕末期の構成と推定されている。

  【召出以上の家格の人数】    190

  【平士の人数】      3,6431人     (切米・扶持米の者1,791人を含む) 

  【組士の人数】        3,230人 

 (構成) ・徒小姓組       294人     【藩主直属鉄砲組の人数】

     ・不断組       180人      徒小姓組・不断組・給主組・名懸組の合計人数 695人 

     ・給主組       110人  ⇒   さらに卒の旗本鉄砲組484人を加えると

     ・名懸組       111人        鉄砲組総人数 1,179人

      (小計)       695人    

        ・その他       345人 

      ・番外士      2,190人 

【卒等の人数】        約  3,900人  ⇒     旗本足軽264人・旗本鉄砲組484人・足軽1,784人・

                        小人516人等。

【家臣団の総数】         10,963人   ⇒   以上の直臣の他、陪臣(直臣の家来)が約24,000人いた。      

          (出典:『仙台市史』通史編3・近世1)

 

  これを整理すると、政宗公が創設した鉄砲組は文禄期の100人から、江戸期を通じて、藩主直属の徒小姓組・不断組・給主組・名懸組及び旗本鉄砲組の合計約1,200人を主力とし、旗本足軽と足軽計約2,000人も鉄砲組となり、大体3,000人規模の体制で編成・維持されたものと推定される。これに陪臣の鉄砲隊が加わったのが仙台藩の総火力数となる。

 

  しかしながら幕末期、西の諸藩では戦闘体制は銃火器歩兵主体に移行しているにも拘わらず、仙台藩は戦力の主体を大番士(平士)軍団(1組360人×10組の家臣団3,400人)の個人武闘力に依存した体制のままで、さらに戊辰戦争に出陣した仙台

藩約14,000人の兵士の火力は旧式の前装式洋式銃(ゲベール銃やミニエー(施条)銃等)と火縄銃が大半であったことから、新政府軍の最新式の後装式施条銃(スナイドル銃やスペンサー銃等)や施条大砲(アームストロング砲等)の火力には対応できなかった。

ちなみに、仙台藩の洋式銃の導入については、慶応3年(1867)4月、大番士松倉良輔(36石)の軍制改革提案(2~3万両の予算で洋式銃隊を1~2隊編成)により、松倉は兵具奉行・施条銃御用掛に任命され、松倉の指示に基づき、公儀使(江戸留守居役)大童信太夫(大番士40石)8月、横浜でアメリカ商人のユージン・ヴァンリードから雷銃(ライフル銃)を520挺買い付けた。当時の銃器相場から1挺40両程度・弾丸込み(総額約2万両)で購入したのはミニエー銃と推測される(前装式施条銃・有効射程300m)。さらに慶応4年4月には寒風沢でプロシア船からミニエー銃1,375挺・ライフル銃(同種か)1,500挺等を6万両余で購入したが、前装式銃は弾薬込めの都度立ち上がって押し込める必要があり、そこを後装式銃で狙われる欠点があった。欧米の武器商人は旧式の中古銃を高値で売りつけた可能性が高い。大番士星恂太郎がその頃組織した洋式軍隊の額兵隊約800人はスナイドル銃(後装式)を装備したものの、反撃の機会もなく、戦局転換には至らなかった。

 

 (参考資料:木村紀夫『仙台藩の戊辰戦争』、『仙台市史』通史編5・近世3、栗原伸一郎『幕末戊辰仙台藩の群像』)

      

【奥州街道の一里塚と一里杭】

 慶長8年(1603)2月、徳川家康は征夷大将軍となり江戸幕府を開府翌年8月、東海道等諸道の整備と日本橋を起点とする一里塚の造築を命じました。一里塚は36丁(3,927m)毎に5間(約9m)四方のを築き、榎を植樹させましたまた宿駅と伝馬の制を定めました。

 仙台領では当初芭蕉の辻を起点とする里程を定めていましたが、幕府の日本橋起点に合わせて、北目町(現仙台中央郵便局付近)を起点とする里程に変更し、領内48の道路の整備と1里36丁による一里塚造築を行いました塚は1里毎に道の両側に造られ榎や杉・松等が植えられました。

奥州街道の初期の仙台以北ルート及び宿駅は元和9年(1623)に七北田宿が町立したことによりほぼ確定しました。

 

 仙台藩はこの一里塚と併せ、仙台城を起点とする半里毎のも設置しました。広大・長大な領内で軍事作戦を展開する際の必要性からと考えられます。

 この一里毎の塚と半里毎の印杭の所在地及び宿駅間の道法(みちのり)が記載されている極めて機密性が高く貴重な史料が羽前街道平沢村猿鼻(さるはな)宿検断市川家に残されていました。「市川家文書」です

 猿鼻宿は慶長7年(1602)頃に新設され、町屋は18軒という仙台藩内最小の宿場でした。検断は代々油井家が務めていたが、江戸末期に2年間だけ市川家が務めたことから、明治

初期の文書廃棄命令(?)を免れて史料が残りました。

  飯沼寅治氏著書より【参勤交代路と番所】                 現在原史料は散逸して無いため、この歴史的に重要な文

                                                       書の存在はあまり学界では取り上げられませんが、郷土史家の飯沼寅治氏が昭和19年にこの写本を作製し、著書に残しました。地元蔵王町の「蔵王町史・資料編」にも収録されています。

  これによると、例えば仙台北目町より北方南部領境の相去村古城前畑中には「三十四里之塚」が、同村足軽町内には「三十三里半之杭」有りとし、また南方藩境の越河付近の上屋尻前には「十五里之塚」が、五賀村大沼には「十五里半之杭」有りとしています。これにより仙台藩は南北50里(約200km)に及ぶ広大な領地だったことが分かります。また文書には奥州街道の領内宿駅30宿の宿駅間の道法も正確に記載されています。

 

 仙台周辺の情報を紹介すると、北目町より富谷新町まで道法及び塚・杭の設置場所は次の通りです。

    一、北目町ヨリ七北田迄       二里十丁

     一、御城ヨリ半里杭     国分町三四郎屋敷前ニ有

     一、御城ヨリ一里杭     光明寺前傳蔵屋敷前ニ有

     一、北目町ヨリ一里塚    堤茶屋覚原前ニ有

     一、御城ヨリ一里半杭    新妻七九郎新田ニ有    

     一、御城ヨリ二里杭     七北田村高柳坂下ニ有

      一、北目町ヨリ二里塚    七北田村高柳橋元ニ有

     一、七北田ヨリ富谷新町迄     二里十九丁  

      一、御城ヨリ里半杭    七北田村狐沢大橋ヨリ十二間上ニ有

      一、御城ヨリ三里杭     同村之内自古六郎ヨリ村境ニ有

      一、北目町ヨリ三里塚    大沢村森田囲橋元ニ有

      一、御城ヨリ三里半杭    大沢村大林坂之上ニ有

      一、御城ヨリ四里杭     富谷村熊谷御山寺次京前ニ有

      一、北目町ヨリ四里塚    富谷村之内同所芋田沢ニ有

      一、御城ヨリ四里半杭    富谷村松原屋敷前ヨリ南ニ有

      一、御城ヨリ五里杭     富谷村下前坂ト五福坂ノ間ニ有

    一、富谷新町ヨリ吉岡迄      壱里二十

                          (以下略)

 また、北目町より増田町まで道法及び塚・杭の設置場所は次の通りです。

    一、北目町ヨリ長町       壱里

     一、御城ヨリ半里杭     柳町十次郎

     一、御城ヨリ一里杭     南鍛冶町久四郎前ニ

   一、長町ヨリ中田町迄       三十二丁四十間

     一、御城ヨリ一里半杭    本岡村長町ニ有

     一、北目町ヨリ塚    長町出放南ニ有

     一、御城ヨリ二里杭     郡山諏訪町出放南ニ有

   一、中田町ヨリ増田町      三十一丁十間

       一、御城ヨリ里半杭    中田町出放ニ有

       一、北目町ヨリ塚    同町出放ニ有

       一、御城ヨリ杭     田高之内沢目ニ

                              (以下略)

    【出典飯沼寅治著「奥州宿駅街道の時代的変遷増補版」】

   

 この記述からいろいろなことが読み取れます。

 まず、仙台以北の「御城ヨリ一里半」のある「新妻七九郎新田」新妻七九郎は、貞享2年(1685)に新妻源太兵衛良胤(4代目。初代源太兵衛重胤は荒巻「妙見神社」を勧請)から分家され、5代藩主吉村公代は中の間詰だった給人です(坂田啓著「私本 仙台藩士事典」より)。「仙台領奥州街道絵図」には「新妻源太兵衛新田」と記載されています。

  

 また、正徳元年(1711)の伝馬賃銭定めまでは北目町~七北田宿間の道法は二里十二丁でしたが、その後の奥州街道ルートの変更により二丁(約220m)短縮され、二里十丁に改められました。したがって、この史料内容は正徳元年以降の宿駅ルート及び道法といえます。

 

 さらに、享保9年(1724)の「名取郡前田村絵図」には、中田宿の御仮屋(本陣)前に「二里十三丁三間之杭」が、また「二里半之杭」が南側出口にあったこと、さらに宿の南二十三丁に「二里之塚」があったことが記載されていると「仙台市史・特別編9」に掲載されており、「市川家文書」の内容の信憑性と正確性を裏付けるものといえます。

 

 上記の情報や地名を参考にしながら、町歩きや街道ルートの探索等を行うと、楽しさは倍増間違いなしです

 

 

【仙台藩を支えた黄金力】

 古来、宮城県北・岩手県南にかけては砂金や大粒産出の金山が多数あり、天平期には涌谷(宮城県遠田郡)から産出された砂金900(1両14g→12.6kg)が奈良東大寺の大仏建立に献上され、平安時代後期(12世紀)玉山金山(岩手県陸前高田市)の砂金から奥州藤原氏の平泉黄金文化が生み出されました。中尊寺金色堂に膨大な産出量を見ることができますが、清衡は朝廷に毎年4貫目(15kg)の金を朝貢したということです。

 

  下って、政宗公が転封で岩出山に移った時期(1591~1600)主要産地の東山・気仙方面の金山は秀吉の直轄支配となりますが、厳しい徴税令に対し「金山一揆」が発生し(文禄3年(1594)金堀人の半数の約3千人が千厩で蜂起、鎮圧後の政宗公支配下では多量な金産出を続けました。

 

 この時期の産出量について、豊臣家の金山(蔵入地)運上高記録によると、慶長3年(1598)秀吉に献上された黄金は陸奥(伊達領)700枚で、越後1,124枚、佐渡799枚に次いでいました。金1枚とは天正16年(1588)に秀吉が製造した「天正大判」のことで、目方は44匁(165g)700枚では総量115.5kgとなります。したがって毎年の産出量は少なくともその倍以上に上るものと想定されます。

 

 

    【鹿折金山産出“モンスターゴールド”】          なお、現在の金地金相場は6,475/g(令和37月14

                               店頭小売価格。税別)なので金1枚は106万円となるが、当時の金と米との換算相場は金1枚=米44石という。1石=1両=8万円とすると、金1枚は352万円となり、伊達領からの毎年の献上額は約25億円となります。(山本博文「関ケ原の決算書」より)

 仙台領では秀吉以後もこの規模の産出が続いたものと見られることから、この黄金が仙台藩初期の絢爛豪華な大広間御殿(1610)や大崎八幡宮(1607)・瑞巌寺(1609)・瑞鳳殿

(1637)等の桃山様式の建物や各種文化、及び支倉常長の慶長遣欧使節派遣(1613)等を賄った財源の基であり、仙台藩の躍進を支えました。

 なお慶長遣欧使節の派遣に当たり、慶長18(1613)4月、政宗公は家康に銀子1,000両を献上しましたが、銀1枚は金の1/10であるので、約3.5億円となります。幕府の船大工や操船水主の派遣等に対する御礼だったのでしょう。

 

  寛永5(1628)には東岩井郡東山岩入で新たに金山が発見されましたが、元和期を境に領内の金山は次第に衰退に向かったようで、寛永の頃(1624~)の御本判(木札の採掘  

      【鹿折金山資料館前標識】            免許証)は1,400余枚でした(文禄期は約6,200余枚)。

                                          仙台藩は財源の主力を金山から新田開発に転回せざるを得なくなりました。2代忠宗公以降の藩主の熱心な取り組みにより、江戸の米の1/3を賄うまでになりました。反面、藩政中期以降、北上の金山は存在すら忘れられました。

 

 しかしながら、明治37年(1904)に気仙沼市の鹿折(ししおり)金山で重さ2.25kg、1.87kg、含有率83%という巨大な

鉱石が産出され、自然金塊としては日本最大の大きさした「モンスター・ゴールド」(怪物金)の触れ込みで同年の

国セントルイス万博に出展され堂々青銅メダルに輝きました。現存するのは元の1/6ですが、それでも現存の金鉱石では

内最大といいます。最盛期の金産出量は明治41年(1908)の63.8kgで、十大金山の一つでしたが昭和46年閉山しました。

 

 鹿折地区の当地には金鉱を見つけた初代技師中村亀治さんの4代目に当たる中村敬二さん(83)が自費で建設した「鹿折金山資料館」があり(数年前建替え)、館長としてボランティアで来訪者の案内に当たっています。

 令和元年5月、鹿折・玉山・涌谷等にまたがるエリアが「みちのくGOLD漫-黄金の国ジパング、産金はじまりの地をた

る-」として、日本遺産に認定されました。かつての黄金の里にはもっと注目していきたいものです。

 

 

【政宗公が育てた刀匠・初代国包(くにかん)】

 日本人の精神文化と切っても切り離せないものの一つに『刀』があります。現在も国内には沢山の刀鍛冶がおり、遠く平安の昔より現在まで刀鍛冶の総数は2万数千名とも言われます。政宗公は香取神道流を修めた軍師・片倉小十郎景綱に剣術を学、火縄銃の扱いにも非凡の才を発揮したと伝えられます。また政宗公は無類の刀好きで知られ、秀吉より賜った鎬藤四郎吉光の脇差を二代将軍秀忠より寄進を求められた際に、臆することなく断った話は有名です(諸説あり)。                   

 

  政宗公は単に刀が好きで鑑賞することにとどまらず、刀                             鍛冶の育成にも力を注ぎました。政宗公が育てた刀工に初代国包(くにかん)がおりました。国包は文禄元年(1592)

  若林区新寺 善導寺境内「本郷国包各代の墓所」】     宮城郡国分若林(現仙台市)の国分氏から代々続く鍛冶職

                                                       息子として生まれ、本名は本郷源蔵(のち吉之允)と言いました。慶長19(1614) 22才の時に政宗公により召し抱えられ、命を受けて京都の名工初代越中守正俊の門人となります。元和5(1619)5年間の修行を終えて帰国し、藩工となりました。寛永3(1626)「山城大掾」を受領し、寛永13(1636)政宗公が亡くなると、入道して用恵仁沢(ようけいにんたく)と名乗り、正保2(1645)53隠居後も刀を作り続けました

 

 国包の作刀の特徴としては、五ヶ伝(大和伝・山城伝・備前伝・相州伝・美濃伝)の中の「大和伝」と呼ばれる作風で、国包自ら大和五派(千住院派・保昌派・手掻派・当麻派・尻掛派)の「保昌派」の末流と言っているように、大和保昌派の特徴を強く出した柾目(まさめ)・直刃(すぐは)の刀です。新刀の刀鍛冶なので、色々な作風の刀を作りましたが、それでも一番多く作ったのは「鍛え肌」は柾目、「刃紋」は「沸」(にえ)本位の直刃の刀であり、家伝である大和保昌派の特徴を備えた刀でした。

 

 国の重要文化財である代表作の刀銘表は「奥州仙台住山城大掾藤原国包」の長銘となり、裏に「寛永五年八月吉日」の年紀が刻まれており、長さ74.23㎝、元幅3.03反り1.21㎝の鑑賞評には次のように記載されています。

 「鍛えは祖法の柾鍛えが如何にも見事で、地沸(ぢにえ)よくついて明るく冴え、波紋は直刃調に浅く湾(のた)れて

   互の目、丁子足(ちょうじあし)よく入り、砂流し金筋がかり、匂(におい)深く小沸よくつき明るく冴え、小丸に

   返った帽子も見事であり、茎(なかご)は生(う)ぶ、先栗尻、表棟寄りに細鏨で奥州仙臺住山城大掾藤原国包と

   長銘があり、裏に寛永五年八月吉日と年がある。」

      (参考文献:佐藤寒山著「新・日本名刀100選」) 

 

 初代国包は寛文4(1664)123日に73歳で亡くなりますが、初代亡き後もこの流派は途絶えることなく、養子も含めた国包の子孫は仙台藩で伊達家の庇護を受けながら刀を作り続け、明治時代まで13代続きました。

なお、初代の国包は「くにかん」と名乗りましたが、二代以降は「くにかね」と名乗っているようです。

 

 仙台藩には藩の刀工として八つの系統があり、それぞれ明治の初めまで藩工の座を踏襲しました。各系統の代表的な刀工銘は国包」(くにかね)・包蔵」(かねくら)・

包吉」(かねよし)・永重」(ながしげ)・安倫」(やすとも)・国次」(くにつぐ)・兼次」(かねつぐ)・

家定」(いえさだ)の8つです。その中で国包の系統は名 

   善導寺境内 仙台市教育委員会標識】         実ともに仙台刀工を代表する名門でした。

        

  ところで、慶長5(1600)関ヶ原の戦いが終わり、戦国乱世が終焉を迎えて平和な徳川の世となり、刀はその本来の役目を幕末の騒乱までの間休む事となります。しかしながら武士はいつ戦いがあっても対応できるよう、体力を鍛え剣術の稽古に励みました。当然、平和な世になっても刀に対する需要は減らず、刀鍛冶は刀を作り続けます。その一方で、暇を持て余す武士達は、自分の刀がどのぐらい切れるか、巻き藁や青竹を切って刀の切れ味を試しました。さらに人骨で切れ味を試したい武士は、首斬り役人に自分の刀を預けて罪人の死体を使って試し斬りをしてもらい、刀の切れ味を確認しました。また江戸時代初期に江戸市中で横行した辻斬りも、自分の刀がどのぐらい斬れるのかを生身の人間を相手に斬り試したものです。

 

  江戸時代後期の寛政9(1797)に、幕府の試し斬り役兼死刑執行人であった山田浅右衛門5代吉睦が著した『懐宝剣尺』という刀剣書があります。これは、当時の首斬り役人が使った刀で一番切れる刀を作った刀工に対し、最上大業物(さいじょうおおわざもの)、次に大業物、良業物、業物とランク付けしたものです。その「最上大業物」といわれる12人の刀工の中に初代国包が入りました。

 

  それでは最後にこの最上大業物の作者にどんな刀鍛冶がいるのか、見てみましょう(12名は『懐宝剣尺』より引用)

 古刀期(平安時代から室町時代文禄頃まで)では次の5刀工です。  

  備前長船秀光・関の孫六兼元(初代・二代)・備前長船元重・備後三原正家

 新刀期(江戸時代慶長から明和頃まで)では次の7刀工です。

  山城大掾藤原国包・長曾禰興里(虎徹)・長曾禰興正・摂津多々良長幸・肥前忠吉(初代)

  摂津ソボロ助広(初代)・陸奥大掾三好長道

  初代国包が作った刀では現在、国の重要文化財(前掲)1振・重要美術品が4振指定されています。

 (参考文献:常石英明著「日本刀の研究と鑑賞・新刀編」)

 

 仙台市若林区新寺の善導寺には、初代国包から13代国包迄の国包13人が静かに眠っています。

 (参考文献:財団法人日本美術刀剣保存協会宮城県支部発行「仙台藩刀匠銘譜」・牧秀彦著「剣技・剣術3 名刀伝」)