【仙台城の歴史と現状】
仙台城(通称青葉城)は伊達政宗公が仙台市街の西の高台・青葉山におよそ10年の歳月をかけて築き上げた山城です。
慶長15年(1610)に城の主殿である「大広間」が落成し、初代仙台藩主政宗公の居城「仙台城本丸」が 完成しました。
天守はないものの、天然の要害に四基の三重櫓を構えた高石垣の城は壮大堅固でした。
政宗公の没後、2代藩主忠宗公は本丸から少し下がった川内の地に「二の丸」御殿屋敷を築造し、政務と居城 の場とし
ました。2代以降の歴代の藩主と家族は明治に至るまで二の丸で政務と日常生活を行い、本丸は重要な会議や儀式儀礼、
及び迎賓の時に使用されました。
明治維新後、大広間等の本丸の建物は明治政府の廃城令(明治6年1873)により解体・民間払い下げとなり、二の丸は
仙台鎮台(後の陸軍第二師団)の本部として使用されましたが、明治15年に失火により全て焼失し、現在は東北大学
川内ャンパスになっています。仙台市博物館のある場所は初期登城路の最初の門・巽門や御米蔵屋敷が置かれ、三の丸
とも呼ばれました。
川内口の登城路には大手門があり、桃山様式で国内最大規模の2階建楼門形式の城門でしたが(昭和6年1931 国宝指定)、
昭和20年7月仙台大空襲で焼失してしまいました。現在、仙台市が2038年完成を目途に復元計画を進めています。
仙台城本丸のかつての威容を感じさせるものは高さ約18m(9間)の北面石垣で、大手門跡前には外堀の五色沼と長沼が残
っています。
【北面石垣】
慶長6年(1601)1月から始まった築城工事は仙台市北西部国見峠付近で採取した大きな自然石(三滝玄武岩)を牛馬が運ぶ
ことから始まりました(うなり坂や広瀬川に牛越橋が架かっており、名残が残っています)。
最初の石垣は斜面が5~6m毎に段差と犬走り(小段)がある段石垣で、野面積みという技法により約48度の緩やかな勾配
で造られました。しかしながら元和2年(1616)の大地震で崩壊したため、元の場所から約10m前にせり出し、新たに約60度
の急勾配で、自然石と表面粗割加工の石材を用いた野面積みと、石垣内部は厚さ約5~10mの版築状の盛土により再築さ
れました。この第2期石垣も寛文8年(1668)の地震で再崩落し、再建されたのは途中で伊達騒動(1667~1671)も発生したため、
15年後の天和3年(1683)になりました。
この第3期石垣が現在に残る石垣で、四角錘状に加工した石材による切込接(はぎ)工法で、目地が揃った布積みのため耐震
強度が強く、70度の急勾配で武者返しがある優美な石垣として300年以上存続しました。
平成16年(2004)には7年に及ぶ全面的な修復工事が完成していたので(約1万個の石は元通りに積み直し)、平成23年(2011)
の東日本大震災の大きな被害は主に西側石垣の崩落に留まりました。
仙台城跡は平成15年に国史跡に指定されており、メインシンボルはこの北面石垣です。
【本丸大広間】
本丸の中核施設としての「大広間」は桃山建築の粋を集めた豪華絢爛な武家書院造りの御殿で、平屋建・入母屋造・杮葺
でした。この殿舎の間取りは豊臣秀吉が関白秀次のために建てた京都「聚楽第」の大広間と類似し、「上々段の間」や御
成玄関等の最高級の格式を備えた建物で、京都山科の御大工梅村彦左衛門・彦作父子や紀州の天下無双の工匠刑部左衛門
国次等の当代の名工や狩野派の画工等により、慶長15年(1610)に完成しました。
広さは俗に千畳敷と呼ばれ(実際は430畳、うち畳部分260畳)14の部屋がありました。
表座敷は藩主が坐する上段の間や天皇家・将軍家用の上々段の間、下段の間等10部屋が続き、家格・役職によって着座場
所が決まっていました。この大広間は藩主の月次(つきなみ)御礼や年始等の儀礼儀式、大名使節等の謁見・饗応の場と
して使用されました。裏座敷は藩主の身内の儀式等で利用されました。
仙台藩御用達の大工棟梁千田家に伝わる絵図では、東西の破風には猪の目懸魚や金箔押の「十六菊と五七桐紋」の大彫刻
そして金箔押軒瓦が続き、まさに黄金色に輝く御殿でした。廃城令で破却されるに際し、上段の間の障壁画「松に番(つ
がい)の鳳凰図」は切り取られ、国宝として屏風に改装されて現在は松島町の博物館(観爛亭隣)に保存されています。
北面石垣の改修に合わせて敷地内の発掘調査が行われ(平成27年春完了)、建物の柱の礎石13個や礎石跡が確認されまし
た。その後現在のような跡地に整備されました。
なお、大広間敷地隣の見聞館には上段の間の「床の間」が原寸大で復元され、同障壁画も複製ながら原寸で見ることがで
きます。また1/50サイズで精巧に復元された大広間御殿の模型も展示されています。
【伊達政宗公騎馬像】
仙台城本丸跡のシンボルである政宗公騎馬像は、「藩祖伊達政宗公三百年祭」(没後)の記念行事の一環として昭和10年
(1935)5月23日に建立されました。作者は仙台の隣柴田町出身の新進気鋭の彫刻家小室達氏、新築された仙台城に甲冑騎馬
で入城する政宗公の37歳の雄姿をイメージして制作されたブロンズ像です。
政宗公は独眼竜の異名の通り隻眼でしたが、眼帯は付けませんでした。しかしながら政宗公の遺言で没後の彫像や絵はす
べて双眼とするよう厳命されたので、右目は開いたお顔になっています。
騎馬像の高さは13尺7寸(4.14m)、重量4.8t。騎馬像は東京日暮里で鋳造され、時速16㎞のトラクターで4日かけて仙台城
に運ばれました。途中の大手門通過の際は、扉高が4mのため門の下の土を1尺(30cm)以上掘り下げ、トロッコに乗せ換え
て通過させました。騎馬像の台座は岡山産花崗岩(竜王石)で高さは4.75m、したがい騎馬像全体の高さは約9m。総工
費42,500円(当時)は県民の協賛金で賄いました。
この騎馬像は太平洋戦争下の金属類回収令により昭和19年5月に撤去され、以後は台座だけが残されたましが、空疎な台
座を見かねた小野田セメント㈱が白色セメント製の政宗公の平服姿の立像(高さ4.5m)を昭和28年(1953)に寄贈しました。
翌年小室家から騎馬像の石膏原型が柴田町に寄贈されたのを機に再建機運が高まり、先の東京オリンピック開催年の昭和
39年(1964)10月に2代目騎馬像の除幕式が行われて現在に至っています。
台座には正面「伊達政宗卿」(60歳の時従三位権中納言叙任で卿、大正天皇が大正7年従二位贈叙。政宗公は尊称)と11歳
で元服時のレリーフ、北面には支倉常長と宣教師ソテロが慶長18年(1613)遣欧使節として出帆する時の見送りの図、南面
には朝鮮戦役で出兵する伊達藩の派手な軍装行進の様子("伊達者”の起源)がレリーフで掲げられています。
なお、供出された初代騎馬像は、昭和22年に郷土史家の石川謙吾氏が塩釜市内の屑鉄置き場に放置されていた胸像部分を
発見し、1,700円(当時の公務員1ケ月給与相当)で買い取り青葉神社に奉納しました。
その後昭和53年(1978)に神社より仙台市博物館に寄贈され、現在は裏庭に展示されています。
【懸造(かけづくり)跡】
本丸東側の崖の上に突き出した数寄屋風書院造りの建物で、米沢城にもあった伊達家伝統の施設です。
広さは桁行南北9間(約18m )・梁間東西3間約6m)で、京都清水寺の本堂舞台と同じ規模です。平屋建で18畳・18畳・24畳
の3部屋からなり、「眺望亭眺瀛閣(ちょうえいかく)」として城下を一望しながら、主に迎賓用に、時には政宗公の思索や
重臣慰労の場として利用されました。慶長16年(1611)に訪れたイスパニア・メキシコ副王の答礼大使セバスチャン・ビス
カイノはその眺望に感嘆し、日本最強の城であると記しているようです。遣欧使節の支倉常長とソテロも出発前に招かれ
たことでしょう。また政宗公は慶長14年(1609)には眼下の広瀬川の岸辺に沿って数キロの鉄砲隊を並べ、つるべ撃ち(順
々の一斉射撃)を観閲しました。
この懸造は都合4回の修復を経て明治初期まで存続し、大広間と同様に解体・払い下げられました。
【昭忠碑】
陸軍仙台鎮台や第二師団の軍人軍属が佐賀の乱(明治7年1874)以降西南の役(明治10年1877)や日清戦争(明治28年1895)
等において戦病死しているため、国事殉難者の霊を祀る目的で建設されました。
宮城県知事や仙台市長、第二師団長等が発起人になり、英霊の鎮魂・慰霊のための組織「昭忠会」が明治32年(1899)に発足、
仙台の橋本組により明治34年(1901)8月着工、翌年7月竣工しました。
高さ約20mの花崗岩の石塔台座の上に翼の長さ約6.7mの金鵄(きんし=金のとび)ブロンズ像が配されており、満州や北
海道方面で南下を狙うロシアを警戒し北方を睨んでいます。
金鵄像の総重量は5.7tで、騎馬像の2割増です。戦前の日本帝国陸海軍の武功勲章は「金鵄勲章」でした。
先の東日本大震災では、強烈な地震動で金鵄像が地面に落下し翼の一部が損傷しました。東京で修復を終えましたが、台
座が100年以上前の建造で耐震補強が困難なことから、現在は台座にのせず下に陳列されています。
昭忠会は明治37年(1904)に仙台招魂社となり、昭和14年(1939)に宮城県護国神社に改称され、さらに戦後宮城神社に改称、
昭和25年(1950)には本丸一帯の国有地約2.3万坪の払い下げを受け、昭和29年(1954)に大広間一帯他一部は仙台市に売却した
ものの、本丸の大部分は現護国神社の所有となっています。
【土井晩翠『荒城の月』歌碑】
上野音楽学校(現東京芸術大学音楽部)が明治31年(1898)、旧制中学校で使う唱歌集を作るため、当時の文士に出題して
詩作を依頼しました。
土井晩翠(本名土井林吉。仙台生まれ・1871~1952)は旧制第二高等学校(現東北大学)の英語の教授でしたが文芸家と
しても知られていたので、「荒城の月」の題を依頼されました。故郷の青葉城址や会津鶴ヶ城をイメージして詩が完成、
これに無名の学生の滝廉太郎が作曲し応募して当選しました。
「荒城の月」は明治34年(1901)から広く中等唱歌として歌われるようになりました。
滝廉太郎(1879~1903)は明治35年(1902)にドイツ・ライプツィヒ音楽院に留学しますが、滞在2ヶ月で肺の結核が判明し、
帰国することになりました。ちょうどその頃土井晩翠は欧州遊学中で、ロンドン郊外のティルベリーの港に停泊する客船
「若狭丸」に23歳の失意の滝を見舞いました。それが二人の今生の別れとなりました。
『荒城の月』の歌碑は仙台以外に次の4か所にあります。
・大分県竹田市岡城址(臥牛城) :滝の父は豊後日出(ひじ)藩の家老でした。
・富山県富山城址(安住城) :滝は明治政府官吏の父の赴任地で一時生活しました。
・会津若松城址(鶴ヶ城) :土井は幼年時から戊辰戦争の悲劇と英雄伝を聞いて育ちました。
・岩手県二戸市福岡城跡(九戸城):土井は秀吉の奥州仕置に反抗した九戸政実の乱の鎮圧を悼んだのでしょうか?
【酉門(とりのもん)と周辺の北西石垣】
詰門の背後の西側一画は護国神社の神殿域に当たるため、金網で囲われて施錠されており、通常立ち入ることはできま
せん。当会はこれまで年に数回、仙台市と護国神社の事前了承を得て市民対象の見学会を実施してきました。
この一画には正保2年(1645)の「奥州仙台城絵図」に「酉方門」と表される二階建の門と二重の脇櫓が配置されてい
ました。ここは大深沢に面して屈曲する内枡形の最奥部に位置し、本丸西側の防御及び水源の確保上特に重要な場所
でした。枡形は高さ約5mの石垣に囲まれ、城外の「井」印が印されている石積みの貯水槽まで続いていました。
詰門西脇櫓から酉門までは石垣に沿い、白壁塗籠(ぬりこめ)・瓦葺き・狭間(さま)のある「長屋」(多聞櫓)が
約140mほど連なっていました。
大深沢に臨む急峻な崖上の北西石垣は正保3年の地震以降、江戸時代に何回か被災しており、平成23年3月の東日本大
震災の地震でも崩落したが、平成27年2月までの修復工事により、切石積みの壁面と割石・野面石使用の野面積みの壁
面が共存する、珍しくも美しい石垣が復元されました。
2021年(令和3年)春、当仙台城ボランティア会ではBlogを立ち上げました。
その名も「ガイドが教える 仙台城を10倍楽しむ方法!」 (ameblo.jp)
伊達政宗や仙台城に興味のある方、まだ仙台城を訪れたことのないという方、多くの方に興味関心を持って頂きたい、そしてより多くの方に仙台城を訪れ、私たちボランティアガイドの話に耳を傾けてもらいたい。そんな一途な思いでブログを立ち上げました。せっかく仙台城まで来たのに、ただ伊達政宗の騎馬像前で記念撮影をして仙台城を後にするなんてすごく、もったいない。
まずは、このブログを読んで、実際に足を運んでガイドの話を聞く。「一粒で二度美味しい体験」をしてみませんか?
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